先日、石巻の川開き祭りへ参加させてもらいました。
(石巻HP
http://www.ishinomakikawabiraki.jp/ )
震災があってからボランティア活動も含めて、こういった活動をさせてもらうのも5回目。
震災から5ヶ月が経とうとしている今、特に被害の大きかった石巻へ行かせてもらったことは大変大きな意味があったかと思います。
今まで参加させてもらったのは主に海から離れた避難所を中心とした活動をさせてもらっていましたが、今回の石巻は日本を代表する漁港で言わずと知れた海の町であり、また大震災の時には全児童108名のうち、74名が津波で死亡・行方不明になったという悲劇の起きた町でもあります。
今までも行った先で津波の被害は見させてもらっていましたが、ほとんどが田畑の広がる場所での被害でしたが今回は海と一緒に生活する町でしたので、感じた印象も全く違いました。
今回はブログというよりは、私情をあまり挟まずにレポートに近い形とさせてもらいます。
朝方、仙台から石巻駅へ

石巻は宮城出身の漫画家の石ノ森章太郎の協力で街全体が漫画の町となってます。
町のあちこちに石ノ森章太郎原作のキャラクターのオブジェやイラストが書いてあります。
駅の周りは全然津波の被害は見受けられなかったのですが、あとで聞いたところによると駅のところも海水で冠水していたらしいです。

車の走る道路の状態はかなり良くなっていましたが、歩道は写真の通りかなりガタガタで舗装が剥がれているところもあちこちにあります。
一旦荷物を置かせてもらい、祭りの開始時間まで余裕があったので町を歩いて見てまわる事にしました。

駅からの商店街はほとんどがシャッターがしまっていたり、休業してました。
このあたりでも1m近くも津波が押し寄せて、1階部分が全滅してしまったらしいです。
googleマップで見ていただくと分かりやすいと思いますが、石巻駅近くには旧北上川が流れていて、津波はこの川を遡って町を襲ったらしいです。
津波の被害がピックアップされていますが、地震の被害もあちこちに見受けられます。

駅の前から、川沿いに移動すると建物等の被害が一気にひどくなります。
旧北上川に掛かる橋の川下のほうの欄干は

津波と一緒にながされてきた物の力で未だに曲がったままです。
もう5ヶ月経っても、まだ曲がったままなんです。

川沿いの家は、完全に1階部分を持って行かれています。
駅近くの商店街では1mほどでしたが、ここでは2m近くまで水が来たことが見受けられます。

仙台近くでも見た光景ですが、堤防がなくダイレクトに水の力を受ける場所では家の基礎を残して持って行かれています。
googleマップでの「中瀬」または、この記事のトップに張った川開き祭りのHPに載っている場所にこの「石ノ森萬画館」があります。
宇宙船をイメージした様なこの建物はテレビで何度も見たことがありますが、実際に自分の目で見てみると被害の多さと、未だ復興には程遠いということを思い知らされます。


この中州はマンハッタン島と漫画を掛けて、「マンガッタン島」とも呼ばれていたらしいです。
堤防のある両側の町と違って、水に親しむ場所だったのか堤防も少なく、水の勢いを島全体で受けてしまったみたいです。

島にある工場はおそらく2m以上まで津波に襲われたと思われます。

島のあちこちには打ち上げられた船が未だに残されています。

一部では解体が進んでいますが、それを見て思った印象は
「もう5ヶ月経ったのに…」
というものでした。

マンガッタン島の先端には自由の女神がありましたが、それも痛々しい姿になっています。
これがいつか綺麗な姿に戻る日は来るのでしょうか…??
マンガッタン島から戻り、更に海へ向かいます。

途中には丁寧に分類されたゴミがあちこちに山積みにされています。
細かいゴミを手作業で分類していたのは、地元のおじさんたちで、テレビでやっているようなボランティアの方は一切見かけませんでした。
おじさんたちに聞いてみると、
「あれはテレビあるところにしかこないんだよ〜。」
だとのこと。壊れた家や、道際には彫刻や写真やアルバムなと少しでも思い出になりそうなものは丁寧に分類されて残してあります。

一見外見が綺麗な家でも、中は泥だらけになっています。
海へ向かって歩いて行く時にはずっと山が右手にあったのですが、その山のラインを越えたところで景色が一変しました。

それはまでは、被害があると言っても1階部分や、ある程度の形状を残していましたが、山際から開けた向こう側は全てが無くなっていました。
瓦礫
瓦礫
瓦礫
別の地域で見たときには砂や木に混じって瓦礫という印象でしたが、ここでは道以外がほぼ瓦礫が詰み上がっています。
道と家の基礎を見れば分かります。
ここには町があったんです。
googleマップを見れる方は、石巻の旧北上川の河口付近をマップと航空地図と切り替えてみてください。
当日はモバイル通信デバイスをもって移動していたのですが、地図と現実の差に頭がくらむ気がしました。
瓦礫の山が現れるとともに、何かの腐った様な異臭が急激に強くなります。
道の向こうでは消毒車が消毒液を散布しています。

川向にはおそらく数十メートル積み上げられた瓦礫の山が…。左端に見えるのがショベルカーなので、30メートルくらいでしょうか…??

海の近くにあった薬局でしょうか?
土台が全て侵食されて建物の1階が宙に浮いてしまっています。

頑強な建物は流されこそしなかったみたいですが、建物の2階部分まで完全に津波が押し寄せてます。だんだんと写真を取るのが苦しくなってきます。
この家には人が住んでいて、この場所では人が生活していて、ここには町があって…。
それが今では瓦礫と異臭と重機しかない荒地になってしまっている。
5ヶ月。
テレビでは以前のようにバラエティを流し、震災に関しても復興した姿や、ドキュメンタリーばかり流していて。
こういう立場上避難所にも比較的出向く自分ですら「5ヶ月」という時間の短さと現実を勘違いしていました。
今時分のいるこの場所で家が壊され、人が流され、命が消えていった。
実感がないようで、怖さで足元が震えるような奇妙な感覚。吐き気。
もう5ヶ月?
まだ5ヶ月?
あとどれくらい?
いつまで?
自分の普段いる日常と、世間に伝わる情報と、あまりに離れた現実とのギャップに夢の中へ来ているような不安定な思考になります。

とりあえず海まで向かってみましたが海は少し木片が多いだけで一見普通の海岸線です。
目の前には遠くまで広がる太平洋。
後ろを振り返ると遠くまで開けている荒地。
この穏やかな海が全てを持っていったなんていうよりも、爆弾が落ちたと聞かされた方が納得出来てしまいそうです。
最後に近くの山の鹿島御児神社から撮った写真です。


さて、そもそも石巻にはパフォーマンスをやらせてもらいに行ったのでそちらの方も書いておいたほうが良いかと思いますが、正直なところ、長々と書くものではありません。
被災地や避難所で思うのは、自分は本当にちっぽけだなぁと思いさらされること。
パフォーマンスでみんなを元気に!
とか
暖かい思いを届けたい!
とか
頼まれても言えません。
結局、自分ができることは自分の力量の範囲内でしかなく、自分の手の届く範囲内にしか伝わらない。
いくら心で言葉を考えようともやることは決まって一つで
自分に出来る最高のパフォーマンスをやるだけです。
ただ、欲をかいていいいなら、パフォーマンスに触れている時だけ全てを忘れて楽しんで欲しいってことくらいでしょうか。
いつも被災地を訪れると決まって、心が痛くなり、自分の力の未熟さと小ささを思い知ります。そして、決まって一番暖かいものを見ている人からもらいます。
「頑張ってね!」「また来年も来てね!」
本当に頑張ってる人から頑張れって言われるのは、自分自身と向き合う本当に強い応援になります。
まだまだ未熟で、コンテストの結果や、ショーの出来に一喜一憂する自分だけど。
それでも今よりももう少しだけでもうまく、もう少しだけでも楽しくやって行けるように頑張りたいって思います。
パフォーマンスやバルーンの技術だけではなく、人間的にもっと大きく成長したい。強くなりたいっていつも思っているけど、いつも小さな事に囚われて迷い続けてる自分。
今回の石巻へ行ったことと関係あるか分からないけど、もっと自分のやることを見据えて、自由に一歩ずつしっかりと進んでいきたいと思います。

最後にここ数年で一番綺麗で一番大きな花火を見て石巻を後にしました。
10年か、20年か。
復興までどれだけかかるか分からないけど、テレビで報道されなくなってから、芸能人が慰問に訪れることがなくなってからが僕達パフォーマーの本当の出番だと思ってます。
石巻がまた前のような港町に戻って、子供たちが大人になるころまで。
それまで僕はパフォーマーを続けよう。